昭和の事件②:「永山則夫連続射殺事件」

映画、ドキュメンタリー

 こんにちは。今回は、昭和の事件②として、1968年(昭和43年)に起こった19歳の永山則夫による連続射殺事件を紹介したいと思います。

 この事件は、日本の高度経済成長期という表の顔に隠された、貧しい東北出身の孤独な少年が犯した事件でした。

1997年(平成9年)に永山の死刑が秘密裏に執行された年は、神戸の少年Aによる前代未聞の凶悪犯罪が起きた年で、少年法についての議論も再燃しました。


事件について

 1968年(昭和43年)10月から11月にかけて、東京・京都・函館・名古屋で、4人の警備員とタクシー運転手が拳銃で撃ち殺されました。

 「連続射殺魔」と命名された事件では、22口径の小型拳銃が使用されていました。

  犯人は11月を最後に犯行を止め、息を潜めていたため、捜査が進展せずにいましたが、1969年(昭和44年)4月に、渋谷区千駄ヶ谷のビジネススクールで拳銃を使った強盗事件が発生し、警備員に発砲した弾丸と薬莢から、前年の連続射殺事件に使われたものと酷似していることと、目撃者による犯人の特徴がわかったため、

 4月7日の未明に、警視庁から緊急配備指令が出され、その30分後に、原宿周辺に配備された警察官が手配情報に似た男を職務質問すると、胸ポケットから拳銃が見つかり、その男もあっさりと犯行を認めたため、緊急逮捕されました。

 「身長は160センチくらいで20歳前後くらいの痩せた目のぱっちりした男」という目撃証言によって逮捕された男の名前は、永山則夫。

 拳銃を使って4人の命を奪い、金品を奪った凶悪犯は、意外にも19歳の少年でした。

 一部の報道機関は、氏名を伏せましたが、大半は実名で報道し、少年が青森県北津軽の板柳町から集団就職し、高級洋菓子店で働くも、数か月で辞め、その後の仕事も長続きせず、故郷の家族からも見捨てられ、孤独のうちに凶悪な犯行に至ったことが世間の知るところとなりました。

犯人の生い立ちについて

 永山則夫は、1949年(昭和24年)に北海道網走市で8人兄弟姉妹の7番目として生まれました。

 父親は、リンゴの剪定技師でしたが、博打好きで有り金を全て博打につぎ込み、家庭は一切顧みないろくでなしだったので、母親が行商で一家を支えていました。

 しかし、母親自身貧しく、カタカナしか読めなかった身の上、女手ひとつでぐうたら亭主と8人の子供を養うことなど無理な話でした。
 

 思い余った母親は、1954年(昭和29年)、永山が5歳のとき、子守役の17歳の次女と手の掛かる幼い子供3人の計4人を連れて故郷の青森柳町に戻ってしまいました。

 網走には、中学2年の三女と小学6年の次男と小学3年の三男と5歳の永山の4人の子供が残されました。

 その時には、父親は、家には寄り付かず行方知れずになっており、子供の面倒を見ていた一番上の姉も、婚約破棄や堕胎などで、精神を病み、精神病院に入院していたため、子供たちの面倒を見る大人は誰もいませんでした。

 網走に置き去りにされた4人の子供たちは、くず鉄やゴミ拾いをしてなんとか飢えをしのいでいましたが、冬は気温がマイナス30度まで下がる網走で、暖房もなく、薄いせんべい布団の中で寒いといって泣いていたそうです。

 そんな子供たちを見かねた近所の人たちの通報で、福祉事務所が母親の居場所をつきとめ、翌年春頃には、子供たちは、青森の母親の元に戻されました。

 永山は、向学心がなかったわけではなかったようですが、貧しい家計を助けるために新聞配達をしていたので、学校にはほとんど行かなかったようです。

 時代は、高度経済成長期で、若者たちは、「金の卵」としてもてはやされました。

 永山も、中学卒業と同時に集団就職で上京することになりますが、上京の際、見送りに来た者は一人もいなかったそうです。

 誰からも愛情を注がれず、それどころか親に置き去りにされ、なんとか生きてきて、「いざ、これから」というときに誰にも見送ってもらえなかったというところに、永山の孤独を感じます。

 上京後、渋谷のフルーツパーラーに就職し、最初は張り切っていたものの、半年ほどで逃げるように辞めてしまいました。

 その後も、自分の出生とそこから作られる性格のせいで長続きする仕事はなく、絶望し、東京にも故郷にも居場所を失った永山は、海外で一旗揚げようと横浜に停泊中の外国船にもぐりこみ、香港から強制送還されたりしています。

 連続射殺事件の数日前には、米軍の横須賀基地に侵入し、偶然、小型拳銃を入手したことで、永山の人生が大きく変わることになりました。

逮捕後

 逮捕された永山は、「犯行は貧乏と無知から起きた」と主張しました。

 一審では、死刑判決が下されました。

 自らの命を投げ出す覚悟の上で、自らの責任とともに、こんな犯罪を生み続ける社会の責任を追及する永山の裁判は、ときには荒れる法廷となりました。

 そんなとき、和美さんというアメリカに住む日本人と文通を通じて、知り合いました。

 愛情を知らない永山の心は、「生きよう」と言う和美さんの存在と励ましによって溶きほぐされていきました。

 やがて、2人は獄中結婚し、妻となった和美さんは、遺族に慰謝し、音信が途絶えていた母親を見舞ったりもしました。

 法廷での永山の態度もやわらぎ、裁判官は、永山の反省が本物であり、しかも犯行当時19歳で、永山の成育歴から未成熟なところがあり、少年法の理念で死刑には慎重にならなければならないと判断し、永山の刑は、無期に減刑されました。


 東京拘置所の独房で、永山は膨大な量の本を読み漁り、哲学や社会科学などを独学していき、1971年(昭和46年)に、獄中手記「無知の涙」を出版し、ベストセラーとなり、遺族に印税を送ったりしていましたが、減刑後は、さらに執筆意欲が増し、自伝的小説「木橋」で新日本文学賞を受賞しました。

 しかし、検察官は、4人の命を奪って無期とは、正義に反するとして、上告すると、最高裁は、審理のやり直しを命じて、死刑の差し戻し判決が下されました。

 その頃から、永山の精神のバランスが崩れ、言動は荒れ始め、和美さんとも離婚し、面会を拒否するようになりました。

 弁護を担当した大谷恭子弁護士は、永山に「生きたいと思わせてから殺すのか」と詰め寄られたと語っています。

 成育歴から犯行動機を探る精神鑑定(石川鑑定)も行われましたが、永山の命をつなぐ「最後の手段」も永山本人が否定したため、生きる選択肢が狭められていきました。

 そんな1997年(平成9年)に、死刑が執行されました。

 永山の「無知の涙」には、こんなくだりがあるそうです。

私は囚人の身となり、もはや遅しである。世の中ままならぬである。このような大事件を犯さなければ、一生涯唯の牛馬で終わったであろう」

まとめ

 この事件が起きた時代は、高度経済成長期でした。

 どこか浮かれた世の中だけど、まだまだ貧しい人たちもたくさんいて、田舎の若者たちは中学を卒業すると、「金の卵」ともてはやされて華々しく上京したしたものの、そのあとは、社会の歯車になるしかなかった。

 正に、学園紛争などで、革命が叫ばれた、時代の風潮もあり、「社会で目立ちたい」と多くの若者が願ったに違いないと思うのです。

 永山もそんな若者の一人だったのかもしれません。
 

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