昭和の事件①:「吉展ちゃん事件」

昭和レトロ

 こんにちは。不景気がここ何十年も続いている日本。2020年にはオリンピックも開催され、前回のオリンピックが開催された(1964年)高度経済成長期と比較すると、どんどんダメになっていく日本ですが、そんな高度経済成長期に起きた誘拐事件が「吉展ちゃん事件」です。

 この事件では、日本初の報道協定が敷かれ、公開捜査で犯人からの脅迫電話を公開するなど、メディアを通じて日本全土の注目を集めました。

 その国民的注目度の高さから「戦後最大の誘拐事件」とも呼ばれています。

 また、捜査を担当した「落としの八兵衛」こと平塚八兵衛刑事と犯人の男のやり取りなども注目を集めました。

 1990年には、NHKが「声~吉展ちゃん事件取り調べテープ」という番組を放送し、話題を集めました(実際の取り調べの録音テープと取り調べで語られるアリバイ捜査の再現映像で構成されていました)。

 今回は、昭和の光と影の「影」の部分を見ていきたいと思います。

事件発生

 1963年(昭和38年)3月31日に東京都台東区の入谷町で4歳の吉展ちゃんが誘拐され、家族から行方不明届が出されました。

 当初は、「誘拐」ではなく、「行方不明」として扱われましたが、4月2日に身代金を要求する電話がかかってきたことで、「誘拐」に切り替わりました。

 犯人の男は、吉展ちゃんと引き換えに50万円を要求してきました。

 吉展ちゃんの家族は、工務店を営んでいましたが、営利目的の誘拐犯が目をつけるようなお金持ちではありませんでした。

 しかも、営利目的の誘拐という、リスクが大きい犯罪の割には、身代金の額は50万円と少額だったので、警察は、早期解決事案と踏んで4月5日には捜査本部を設置したものの、身代金を犯人に奪取されるという失態を犯し、しかも奪取された身代金の札のナンバーも控えていなかったという初動捜査のミスが重なり、捜査は難航していきました。

捜査

 身代金を奪取され、犯人を取り逃がしてしまった警察は、報道陣に対する緘口令を敷き、この失態をカバーするために世間に知れ渡らないうちに、逃した犯人を逮捕することを目標に、脅迫電話の声を分析し、「犯人は40歳~50歳くらいの東北なまりの男」をしらみつぶしに探していきますが、進展はなく、

 1963年(昭和38年)4月19日に、警察は、脅迫電話をテレビやラジオで公開するという公開捜査に踏み切りました。

 誘拐事件において公開捜査に踏み切ることは、人質の命が犯人の意思によって保たれていた場合、事件を公開することが犯人を刺激することになり、大変なリスクがありました。

 しかし、最後の手段とも言える公開捜査に踏み切った警察は、この時点で、人質救出より犯人逮捕に賭けたのでした。

 この時代、日本の警察は、営利目的の誘拐事件に対応する原則を確立しておらず、捜査技術も未熟(電話の逆探知さえ未採用だった)だったので、捜査は、公開、未公開、公開と二転三転してしまったのです。

 公開捜査開始の4月25日に、TBSやNHKが脅迫電話の犯人の声を流すと、多くの情報が寄せられました。

 その中には、犯人の実の弟からのものもあり、報道で「声」を聞いた弟は、兄の声だと確信し、本人を問いただしていました。

 

犯人の情報

 脅迫電話の声が全国に知れ渡ると、その声色や訛り、独特の言い回しなどから、ある男の情報が数件、警察に寄せられました。

 その男の名前は、「小原保」。

 30歳の福島県の農家出身の小原は、時計職人として身を立てていましたが、借金ばかりしていて、小学生のときにあかぎれの悪化で発症した骨髄炎の後遺症で足に重い障害を負っていました。

 足の障害は、小原の人生に暗い影を落としたようですが、当時、小原と付き合っていた、行きつけの飲み屋を経営する10歳年上の女性によると、小原は、陰気か陽気かと聞かれれば、陽気な方で、饒舌ではないけれど、誰とでもよく話し話題も豊富で、客の間では人気のある方だったと言います。

 常連客の子供もよくかわいがり、子供好きで、子供の心をつかむ術にたけていたようです。

 付き合っていた女性によると、一週間小原が帰ってこないことがあり、4月3日の夜に店に顔を見せたとき、「時計を密輸した疑いで横浜の警察に入れられていた」と言い訳をしましたが、この時から、それまで借金ばかりしていた小原の金回りがよくなりはじめるという不可解な変化に周囲は首をかしげました。

 小原に関するこの動きは、警察も嗅ぎつけていましたが、確たる証拠のない警察が、逮捕の機会をうかがっている間に、情報を嗅ぎつけた文化放送の記者たちは、小原に近づき、取材を申し込み、インタビューに成功しています。

 メディアに先を越されはしたものの、警察も5月21日に、小原を別件逮捕し、上野警察署に連行、取り調べのあと、逮捕、留置しました。

 取り調べで、警察は、事件当時の3月27日から4月3日までは、郷里にいたという小原のアリバイをどうしても崩すことができずに、6月10日には拘留延長が切れ、小原は不起訴処分で釈放され、小原に対する捜査は打ち切られてしましました。

 捜査の進展がないのに、反比例して、社会の事件に対する関心は日に日に高くなっていき、民間団体がポスターやチラシを配り吉展ちゃん発見をよびかけたり、吉展ちゃんの家族へは善意の励ましの言葉が多く寄せられましたが、それと同じくらい悪意のある言葉も寄せられ家族は疲弊していきました。

 そんな家族や国民の声に応えようと警察も、威信をかけて捜査を続けていました。

 ちょうどその時期には、アメリカのFBI方式が採用され始めたこともあり、保留中の名簿の総点検が行われ、その中から浮上したのが、もっとも疑わしい「小原保」だったのです。

「落としの八兵衛」の登場

 小原の名前が再浮上し、警察が再捜査に乗り出した頃、小原の遠戚の男性からの新しい情報が寄せられました。

 その遠戚の男性によると、1963年(昭和38年)4月3日に、(小原の警察への供述によると、郷里から帰京した日)突然、小原が訪ねてきましたが、浮浪者のように汚れた姿で、新しいワイシャツの替えを要求するほどだったと言います。その日、偶然、2軒隣の家でボヤ騒ぎがあり、小原は、遠戚の男性と消火活動に参加したそうです。このときのことが、後の取り調べに大きな意味を持つのです。

 小原の怪しい動きに、再び逮捕の機会をうかがっていた警察ですが、小原は、盗品を質入れしあっさりと逮捕され、12月11日に身柄が警視庁に移されました。

 取り調べで、小原は、なかなか口を割らず、警察は、事件当時、郷里にいたという小原のアリバイを崩せないまま、2年が過ぎ、人権問題もからんできたため、もはや迷宮入りかと思われました。

 が、

 1965年(昭和40年)5月13日に、平塚八兵衛刑事部長が警視庁の会議室に呼ばれました。

 平塚刑事といえば、昭和の難事件をいくつも解決して、「落としの八兵衛」と言われるほど、容疑者を自白させる名人でした。

 1963年(昭和38年)3月31日に事件が発生してから、約2年が経過してしまっていましたが、平塚刑事は、独自に再捜査を開始しました。

 小原に真実を語らせるためには、1963年(昭和38年)3月27日から4月3日まで郷里にいたというアリバイを崩す必要がありました。

 そこで、平塚刑事は、福島へアリバイ捜査へ出かけました。



 

アリバイ崩し

 吉展ちゃんがいなくなったのが3月31日で身代金要求の電話がかかってきたのが、4月2日

 小原の供述は、3月27日から4月3日までは福島にいた(4月3日に帰京)

 福島にいる間は、実家には立ち寄らず、転々と野宿しながら過ごしたと供述していました。


 ここから、平塚刑事が福島に足を運んで得た情報と小原が自供したアリバイの矛盾点を挙げていきます。

矛盾点1:

「3月29日に実家の土蔵に忍び込んで、中につるしてあるシミモチを盗んだ」
  ↓
「あの年(昭和38年)はシミモチの材料である米が不作だったので、シミモチは作らなかった」(義理の姉談)

矛盾点2:

「土蔵には鍵がかかっていたので、木の枝を突っ込んで開けた」
  ↓
「この土蔵は、ワラブキだったが、昭和36年にカワラに変えたため、カワラの重みで土台がゆがんで、それ以来、引き戸の鍵もかからなくなったので、鍵はかけていない」(義理の姉談)

矛盾点3:

「3月29日、31日、4月1日、2日と、脱穀ワラを積み上げた「ワラぼっち」で寝た」
  ↓
「小原が3月29日にワラぼっちで寝ているのを見つけて、前日にその周りで火をたいた跡があったため、火事にでもなったら大変だと3月29日の夕方には、ワラぼっちは片づけてしまっていた(ご近所の人談)

このような供述の矛盾をついて、平塚刑事は一気に自供へと持ち込むのです。 

自供へ

 犯人逮捕から2年が経過し、有罪へと持ち込める証拠もなく、人権問題にも発展してしまっていたため、追いつめられていた警察は、最後の賭けにでます。

 1965年(昭和40年)6月23日、ここで、これまでの小原のアリバイが崩せなければ、小原に関する捜査は打ち切られるという瀬戸際で、しかもそのアリバイを崩せるのは平塚刑事しかいないという絶体絶命の状況の中、取り調べが行われました。

 平塚刑事は、福島で聞いた話と小原の自供が矛盾することを次々に突き付けて行きました。

 ・土蔵に忍び込んでシミモチを盗んで食べたというが、その年はシミモチは作っていなかったこと。
 ・ワラぼっちに寝たと言うが、ワラぼっちはその日はとっぱらわれていて、なかったこと。

などなど。

 最後に、小原のお母さんが平塚刑事を追いかけてきて、土下座したエピソードを語った時、小原から最後のボロが出ました。

 母親が土下座をしてまで息子の懺悔をしていたことを突き付けられ、良心が痛んだのか、小原は、遠戚の男性を訪ねたときにボヤ騒ぎがあり、足の悪い自分も消火活動に参加して、いいこともするんだとアピールしました。

 しかし、調子づいた小原は、「刑事さん、だけど日暮里の火事みたいに大きくなったら、ちょっと手が出ませよ」と言ってしまいました。

 平塚刑事は、吉展ちゃんの家族から犯人からの最初の脅迫電話があったのが、日暮里の火事の最中だったと聞いていたことを覚えていました。

 4月3日に帰京したと言っているのに、なぜ4月2日の日暮里の火事を山の手線の中から見ることができたのか。

 数々の矛盾をついていく平塚刑事に観念した小原は、ついに「私がやりました」と自供したのです。

 ちなみに、身代金誘拐を思い立ったのは、借金地獄で金策に走りまわっていたころ、映画館で見た「天国と地獄」(黒沢明監督)の予告編を見てヒントを得たためだったそうです。



その後

 死刑判決を受けた小原は、死刑囚として残された時間を被害者への罪の償いと自分の思いを短歌という形で詠むことに捧げました。

 小原は、「土偶」という短歌の歌会への入会を許され、数々の短歌を詠んでいます。

 最後の言葉は、「真人間になって死ん行きます」だったそうです。

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