こんにちは。今回は、伝説の討論会と呼ばれる三島由紀夫と東大全共闘の「三島VS東大全共闘」を観てから、興味を持つようになった1960年代後半から1970年代前半にかけてのいわゆる団塊の世代が学生だった頃の学生運動にまつわるドキュメンタリーである「きみが死んだあとで」を紹介したいと思います。
1960代後半、世界的にも運動が巻き起こっていたベトナム反戦を一番大きな軸として、各地で学生や市民によるデモが起こっていました。
このドキュメンタリーは、1967年10月8日の、「第一次羽田闘争」と呼ばれる羽田・弁天橋での学生と機動隊との衝突で亡くなった18歳の京都大学の学生である山崎博昭さんに焦点を当て、当時についての関係者たちのリアルな証言とその後を、取材したものです。
監督は、全共闘世代にあこがれたという代島治彦氏です。
3時間20分の長編ですが、「上」と「下」に分かれていて、「上」では山崎博昭さんが命を落とした「第一次羽田闘争」までのいきさつが関係者たちによって語られます。
そもそも、山崎博昭さんが命を落とした「第一次羽田闘争」がなぜ闘われたかと言いますと、当時の佐藤首相の南ベトナム訪問を阻止するためでした。
1965年頃から激化していたベトナム戦争の悲惨さが世界で報道され、日本は、第二次世界大戦後は、「平和主義」を掲げてきましたが、ベトナム戦争では、アメリカに基地や軍事物資を提供して、政治的にも経済的にもアメリカを支援しており、日本は、戦争に加担している加害者なのだという自覚のもと、戦争への加担を阻止するため、日本の首相がベトナムを訪問するべきではないという反対運動に発展していったのです。
この闘争で、山崎博昭さんは命を落とすのですが、当初、警察の発表は、機動隊との激しい衝突の最中、学生が奪った装甲車が山崎博昭さんをひき殺したということでしたが、遺体にはタイヤ痕などはなく、死因は脳内出血だったことと、山崎さんが数人の機動隊に警棒で叩かれ、失神していたとの目撃証言もあり、機動隊による撲殺の可能性が言われています。
皮肉にも、山崎博昭さんの死は、「革命」をめざし、命をかけた闘いを共に闘ってきたはずの同士たちにも衝撃を与えました。
「下」では、山崎さんの死が、弔い合戦として佐藤首相の日米安保条約協議継続のための訪米を阻止する第二次羽田闘争などの闘争につながっていく様子が語られます。
やがて、学生運動は、党派対立の内ゲバが激しくなり、1972年の連合赤軍事件などに発展していき、方向性を見失っていくことになります。
「下」では、山崎博昭さんの高校の先輩である、元東大全共闘議長の山本義隆さんや物理学者で東大の助教授であった水戸巌さんの奥さんの水戸喜世子さんが出てきます。
山本さんは、東大全共闘議長であった立場から、学生運動を総括するために山崎博昭さんの死を語っています。
水戸巌さんは、山本さんが物理学を専攻する学生であったため、恩師でもあり、学生運動を支援してくれる協力者でもあったのです。
水戸さんは、10月8日の「羽田闘争」で、山崎博昭さんの死と、多数の負傷者を出したこと、デモに際し学生たちが不当な扱いを受けたことに対して、「羽田10.8救援会」を立ち上げ、以後、奥さんの喜世子さんや他の支援者とともに学生たちの運動を支えていくことになりました。
水戸巌さんに関して、奥さんの喜世子さんがインタビューに答えている理由も、かなり衝撃的でした。
3時間20分という長編なのですが、関係者たちの証言が、かなり時間が経っているのに、とても詳細で見入ってしまいました。
山崎博昭さんの死は、結果的に「命をかける」ことになってしまったのか、最初から、「命をかける」覚悟で闘いをしていたのかは、わかりませんが、学生運動を語る上で、大きな出来事であり、歴史として残していくためには、当時を語ることのできる関係者のリアルな声をこのドキュメンタリーに収めたかったのだろうと思います。
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