全共闘についての本を読んでみました

映画、ドキュメンタリー

 こんにちは。今回は、「三島由紀夫vs東大全共闘」でも話題の全共闘について知りたくて

 当時東大全共闘議長だった山本義隆氏の「私の1960年代」と討論会にも出ていた小阪修平氏の「思想としての全共闘世代」(ちくま新書)を読んでみました。

 政治的な思想とかではなく、純粋に彼らの生きた時代を知りたいと思いました。

時代背景

 1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていました。

 1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止、廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていました。

 これに伴い、学生によるベトナム反戦運動と第二次反安保闘争が活発化していました。

 世界的にも運動が巻き起こっていたベトナム反戦を一番大きな軸として、三里塚(成田)での新空港建設反対闘争が土地を収用される農民の反対運動を支持する形で始まり、王子野戦病院闘争や当時の佐藤首相の訪ベトナム阻止運動(第一次羽田闘争)が闘われました。

 このように、街頭での抗議デモなどの行動を重視することによって、学生運動は大衆の支持を集めていったのです。

 山本義隆全共闘議長は当時、「単に学生の闘いが、大学の封建制であるとか、学生の特権的な利害のためだけの闘いではないということをはっきりと宣言したい。

 我々の闘いがこのようなものであるがゆえに、基地等で闘っている農民のみなさんや市民の皆さんあるいは、職場内で闘っている労働者のみなさんと連帯して闘っていけるという自信を持っている」と演説しています。

 学生運動は、もともとは、大学内の問題から端を発しているのですが、社会や世界情勢の分析を踏まえて語られるのはこのためです。

 それと同じくして高度経済成長の中、ベビーブーム世代が大量入学した大学では、権威主義的で旧態依然とした大学運営に反発する動きが学生による闘争に発展していきました。

 この、いわゆるマスプロ(大量生産)大学として最たるは、日本大学で、当時10万ちかい学生を抱える日本最大のマンモス大学でした。

  全共闘運動で有名なのは、東大で、それは、三島氏との討論や安田講堂の攻防戦がマスコミを通じて日本中に報じられたためですが、組織的に優れていたのは日大全共闘だったと言われています。

 日本大学は、学生運動が全く存在しない、当時としては異常な大学でした。

 それは、大学が徹底的に理不尽に学生を管理をしていたためで、学園祭のような学生の活動さえ困難だったそうです。

 そのような徹底的な管理の中、全共闘が討論会を開催したり演説やデモ行進をすることは大変な困難が伴いました。

 日大闘争が東大闘争より環境的に困難なものだったと言われるのはこのためです。
 

全共闘について

 全共闘という組織についても記しておきたいと思います。

 全共闘という組織の特徴は、指導や命令といった関係性が存在せず、加入するための正規の手続きがあるわけでもない、メンバーシップが確定していないところにありました。

 活動に参加するかしないかは、個人の自由で、何かの組織の一員だから行動するのではなく、自主的に立ち上がるということが尊重されていたようです。

 なので、いつの間にか全共闘になっていたとかいう人もいたようです。

 世間では、東大全共闘の議長として山本義隆氏が知られていますが、山本氏が議長になった経緯は、山本氏が代表者会議で司会をやっただけということで、お鉢が回ってきて、いつの間にか議長になっていたというようなルーズな感じだったそうです。

東大闘争

 東大における闘争のそもそもの始まりは、医学部の医師インターン制度の完全廃止を求める運動でした。

 当時、医学生は、医師免許を取得してから1年のインターン研修を義務付けられていましたが、研修というのは、名ばかりで、病院側の利益のために若い医師に不当な労働を課し、使い捨てにするというものだったのです。

 この不当な扱いに対して、大学と病院側と学生が衝突し、大学と病院側は、学生を処分します。

 この処分をしたのが、大学評議会という大学のトップに君臨する組織だったのです(映画「白い巨頭」でも描かれている大学病院における絶対的な権威)。

 このことにより、東大という組織そのものへ学生の怒りが向かったのです。

 大学と学生の衝突が激しくなっていったため、卒業式や入学式が中止され、運動自体が知られるようになると、マスコミに注目されるようになります。

 勢いに乗った全共闘は、安田講堂をバリケード封鎖し、占拠しますが、それに対抗する形で大学は、機動隊を動員して学生を排除しようとします。

 学生は、大学が外部の機関である警察の機動隊を動員したことは、大学の自治(学問の自由が保証され、大学は中立でなければならないとするもの)が侵害されたとして、ますます運動は激化していきます。

 大学構内は、完全なる学生の自治区と化し、学生による大学の自主管理(解放空間)が実現されたかに思われましたが、1969年1月18日と19日に、学生が占拠していた東大の安田講堂は、大学側の要請により動員された機動隊に包囲され、催涙弾と放水攻撃で、籠城していた学生は排除され、多数の逮捕者が出る騒動になりました。

 この後、1月20日には、東大の入試中止が政府から発表され、浪人生にはショックを与え、全共闘の運動も大衆の支持を失い、孤立の道をたどっていくことになります。

三島との討論

 安田講堂の攻防戦の後、「政治闘争には敗れたが、東大闘争の理念を文化闘争として持続していこう」という活動をする中で、三島由紀夫を迎えて討論しようという話が持ち上がります。

 この時、実現したのが、映画になった「三島由紀夫vs東大全共闘」での討論会です。

 映画の中でも語られている、三島氏を全共闘が「近代ゴリラ」と皮肉ったのは、天皇主義を唱え、あれほど知識をもっているのにこんなに時代錯誤(時代に逆行している)な政治的な主張をする三島氏を「近代的」だと全共闘は認識していたからだそうです。

 討論会に参加している当事者たちが映画の中で当時を振り返って語っているように、思想的には正反対なはずなのに、暴力肯定や直接行動主義などさまざまなところでの奇妙な一致が成立し、戦後民主主義的知識人の欺瞞への否定と相手に対する誠実さを確かめ合うことで共感関係がうまれ、後に、「伝説の討論会」として語り継がれることになります。

学生運動のその後

 安田講堂の攻防戦の後、1969年は街頭闘争の年となり、全国の大学が全共闘を結成して全国全共闘が結成されることになります。

 表面上は、各大学の運動を有機的に結合して、これからの運動につなげようという目的でしたが、やがて党派対立や内部対立を生み、のちに連合赤軍事件を起こす赤軍派の登場を招いていきます。

 その後、日米安保体制は事実上恒常化し、70年日米安保闘争は敗北という結果に終わります。

 闘いが終わって、日常に戻った学生の中には、現実を取り戻すことが難しかった人も多くいたようです。

 運動は、既成概念や事実を「壊そうとするもの」であるのに対して、現実は、生活を「築きあげていくもの」だからです。

 
 当時の運動を経験していない私達下の世代が、全共闘運動の意味はどこにあるのかを見出そう試みようとしても難しいかもしれないです。

 なぜなら、映画「三島由紀夫vs東大全共闘」にも出ていた全共闘の小阪修平氏の「思想としての全共闘時代」の中で、(全共闘運動の意味は)「あの時代を通過したことがそれ以降の生にとってどういう意味をもっていたのかという角度(経験)からしか語ることができない」と書いています。

 経験からしか語れないのであれば、経験としてあの時代を生きていない下の世代が意味を見出すことは難しいのかもしれません。

まとめ

 当時の学生運動が成功だったか失敗だったかということは、運動を経験した人たちの声に耳を傾けてみるのがいいと思います。

 組織や運動が結果としては、何も残らない原因は、分裂だと思います。

 その組織や運動そのものを否定して去る者もいれば、そこから新しいことを始める者もいます。

 また、どの時代にどこで何をしているかという運命のようなものが人の人生を左右するのだと思います。

 小阪修平氏は、その著書のなかで、「もう一度生まれ変わって全共闘運動があったらどうするか」というアンケートに、参加すると答えたと語っています。

 理由は、「正しかったからではなく、時代の流れにつかまれてしまったから」だそうです。

 70年代の学生運動を闘った世代は、今、団塊の世代と呼ばれる世代ですが、その世代を親に持つ私は、団塊ジュニアで第二次ベビーブームのときに生まれ、就職超氷河期のロスジェネ世代です。

 今、自分の生きた人生を振り返ってみると、結構、最悪な時代なのですが、そのときは「こんなもんか」と自己責任で自分の努力が足りないと、もがきながらもなんとか生きてきたと思います。

 生まれる時代は選べないのですよね。

「何かが変わるかもしれない」という激動の時代に生まれていたとしたら、何をしていると思いますか?

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