昭和の事件②:「深川通り魔殺人事件」

昭和レトロ

 こんにちは。先日、ふと、「あの事件の犯人は、どうしただろう?」ということが思い浮かびました。

 あの事件とは、「深川通り魔殺人事件」です。


 40年以上前の事件ですが、寿司屋の格好をした警官らに取り押さえられ、ブリーフで、猿ぐつわを嚙まされた姿で連行される異様な逮捕時の写真を目にしたことがある方は多いのではないでしょうか。

 今も昔も、「死刑になりたかった」という理由で無差別に人の命を奪う事件がたびたび起こります。


 この事件の犯人の動機も、「親兄弟もグルになって自分をいじめて、仕事も見つからず人生に絶望したから」というものでした。

 事件は、女性と子供が犠牲となっていることでもわかるように、犯人の男は、元来、とても気弱な男であるにもかかわらず、自分の作り上げた強い男という虚像を追い求めたことで、本当の自分を見失い、人生で、失敗を重ねていきました。

 しかし、その失敗は、常に、親兄弟や「黒幕」に操られた世間の人たちが、自分を追い込んだことが原因であると責任転嫁をしていました。

 「甘え」があって自分の人生が思い通りにならないとも思えますが、自分には「甘え」を許すような人間が、人に刃を向けるという正反対に思える行動の落差に戦慄を覚えるような事件です。

 事件と犯人の人物像についてみていきましょう。

事件について

 1981年(昭和56年)6月17日の白昼に東京都江東区の商店街で、川俣軍司(当時29歳)という男が、鋭利な刃物で通行人の女性と子供の計4人を切り付け殺害し、2人の女性にケガを負わせ、別の女性1人を人質に、近くの中華料理店に立てこもりました。

 通報により駆けつけた警察に対して、自分を苦しめてきた黒幕と自分をクビにした寿司店の店主らを連れてこいという要求をしてきたため、警官の一人は、寿司屋の格好に変装したりして、突入の機会をうかがっていました。

 立てこもりの間、「電波がひっついている」というような意味不明なことを言ったりしていたため、薬物の使用が疑われましたが、差し入れさせた食べ物や飲み物を人質女性に毒見させるなど、冷静なところも見られました。

 7時間の膠着状態の末、人質の女性が、犯人の隙を見て脱出すると、これを機に警察が突入して犯人逮捕に至りました。

 犯人の川俣は、自称寿司職人としていくつもの寿司店に勤めるも、すぐに自ら辞めたりクビになったりして、生活が安定しないばかりか、若い頃から暴力沙汰を起こしてたびたび刑務所に入っていたため、前科がいくつもありました。

 事件を犯した直接の動機は、直前に就職を申し込んだすし店に採用を断られ、人生に絶望したためだったそうです。

 また、「電波とテープがひっついて長年苦しんできた」という理解不能なことを言っていたため、覚せい剤の使用が疑われ、検査の結果は、使用が認められるものでしたが、川俣は、絶対にやっていないと認めようとしませんでした。

 取り調べの最中も、食欲旺盛で、出される食事に文句を言ったり、「俺はいつでも死ねるんだぞ」などとすごんでみせたりしますが、取調官が「じゃ、やってみろ!」と強い口調で言い返すと、しゅんとなって下を向いて黙りこみ、相手の出方が強いと、戦闘意欲をなくしてしまうというような気弱な性格は、逮捕される前からのものであり、逮捕されてからも変わらないようでした。

 公判でも、「長年みんなが自分の悪口を言っている」という幻覚幻聴や妄想に悩まされてきたようなことをしきりに発言するため、責任能力をめぐって、精神鑑定が行われた結果、1983年(昭和58年)1月6日に無期懲役が確定しました。

犯人の川俣軍司について

 1952年(昭和27年)に、茨城県で生まれました。5人兄弟の4番目で、川俣が生まれた頃の一家は貧しかったようです。

 父親は、漁師で、シジミ採りを専業にしており、当時シジミ採りは、農地を持つ農家が閑期である冬場を利用して行うものであったため、農地を持たない川俣家は、経済的に苦しかったのです。

 幼少のころの川俣は、おとなしく目立たない少年だったようですが、父親は、川俣を他の子供とは遊ばせず、家の中から父親が川俣少年を怒る声がよく聞こえてきたそうです。

 川俣の父親は、体に入れ墨を入れていたこともあり、近所の子供は怖がっていたそうです。

 父親は、川俣を高校に進学させたかったということですが、経済的に苦しい家族のため、川俣自身は、東京に行って就職する道を選択しました。

 「毎日、すし食えて良かっぺ」と中学卒業して、東京で寿司屋の板前になることを決めた川俣少年は、築地の寿司店で働くことになりました。

 最初は、まじめに働いていた川俣でしたが、3年程経ったとき理由も言わずに辞めたいとだけ言って築地の寿司店を辞めていきました。

 次に勤めた、江戸川の寿司店では、兄貴分の板前で入れ墨を入れた男がおり、それにあこがれ、自らも入れ墨をいれ、店で自慢げにちらつかせたり、酒を飲んで客にからんだりするようになったため、クビとなりました。

 江戸川の寿司屋をクビになると、ひょっこり茨城県の実家に帰ってきて、「客商売は合わないから」とトラックの運転手になりますが、長続きせず、再び東京に出て働くも、立て続けに傷害などの事件を犯して少年院に服役しました。

 「入れ墨」と「ムショ帰り」を誇らしげにしていた川俣は、すぐに警察沙汰を起こし、見かねた父親が、故郷に帰ってシジミ採りを一緒にやることを提案しました。

 最初は、シジミ採りで儲けて家を建てると意気込んでいた川俣でしたが、組合のルールを破って自分の都合で船を出したり、他の漁師に喧嘩を吹っ掛けたり、父親がちょっと注意すると、暴れ出し、その矛先は、母親にも向けられた。

 この頃から、まわりも川俣の異様な様子に、違法な薬をやっているのではないかと疑いを持つようになりました。

 漁がヒマになると、行きつけのスナックで、ホステスに気前よくお酒をおごり、プレゼントをしたりしていました。

 そんなとき、お気に入りのホステスに亭主がいると知った川俣は、「約束が違う」とホステスを切り付けるという事件を起こしました。

 相手は商売柄、気のあるそぶりを見せたのを、川俣は本気にしたのですが、川俣は、相手の真意を読めないため、誤解をしてしまうという性分が人間関係を困難にし、警察沙汰にまでなってしまうようなところが常にあったようです。

 それからも、職を転々としていくのですが、どれも長続きはしませんでした。

 最初は、まじめに働き、周りの印象もいいのですが、しばらくするとさぼりぐせが出て、その言い訳が理にかなったものであっても、言葉も態度も不器用な川俣は、その場をうまく取り繕うことができず、さぼったことで周りとうまくいかなくなったとの思い込みで、居づらくなり次第に姿を見せなくなるということを繰り返していました。

 そんな寿司職人としても、腕は上がらず、一人前にもなれず、お金もないのに、入れ墨を入れ、見栄を張る川俣をいじらしく、かわいそうになるくらいだという目で見ていた人たちもいたようですが、

 挨拶もせず、乱暴な口調で肩をいからせてすごんでくる川俣を「気持ちが悪い」と見ていた人たちがほとんどでした。

 立て続けに寿司屋をクビになり、面接に行った寿司店からも、採用を断られた川俣は、その足で、事件を起こしたのでした。

まとめ

 結局、川俣がどうなったのかは、40年前の昭和58年の無期懲役の確定判決以後は、なんの報道もないので、おそらく現在も服役中と思われます。69歳ですね。

 信じられないことに、事件当時、川俣は29歳だったのです。

 目撃証言でも、40代の男と大々的に報じられていました。

 被害者の家族は、体を壊したり、引っ越しを余儀なくされたり、人生がめちゃくちゃになってしまったという報道がされていますが、加害者本人は、法の下で守られて生きているということに、理不尽さとやるせなさを感じる事件でした。

1983年に放映された、大地康雄さんが川俣軍司役を演じた「月曜ドラマ劇場」「深川通り魔殺人事件」はとても面白かったです。↓

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