昭和の事件④:「還らぬ息子 泉へ」

昭和レトロ

 こんにちは。久しぶりに昭和の事件シリーズです。

 今回、紹介するのは、昭和54年(1979年)に起こった、有名私立高校(早大学院)に通う16歳の少年が、祖母の命を奪い、自らも命を絶つという壮絶な事件についてです。

 しかも、この事件で人の目を引くのが、少年が生前に、新聞社宛に書いた遺書や録音テープなどが残されており、犯行が計画的であったこと(後に、遺書は、各新聞社には送られていなかったことなどから、偶発的な犯行であったとの見方もあります)と、少年が学者の祖父や父親、シナリオライターの母親という世に名前が知れた(その分野の人たちにとってはかなり有名)一家の出だったということでした。

 この事件の2年前には、開成高校生絞殺事件が起こっており、受験戦争やエリート学生たちの苦悩や家族問題などが連日、マスコミで論じられました。

 今回、この事件について少年の母親である朝倉和泉さん(本名は、朝倉千筆さんですが、息子の泉さんの名前である泉を和泉に変えて、ペンネームにしています)が息子の泉さんに宛てた手紙という形式で書いた小説「還らぬ息子 泉へ」(中公文庫 1980年)を元に事件の背景を探っていこうと思います。

事件の背景

 事件を起こした16歳の少年の名前は、朝倉泉(以下、朝倉少年)。

 昭和36年(1962年)7月19日に、仏文学者の父親とのちにシナリオライターとなる母親である朝倉千筆さんの元に生まれました。

 母親千筆さんの父親、朝倉少年にとっての祖父朝倉季雄氏は、著名な仏文学者で、朝倉少年の父親は祖父の愛弟子という関係にあったため、娘と愛弟子の結婚を強く望みました。

 しかし、千筆さんは、この相手との結婚には乗り気ではなく、一旦は断ったものの、自殺未遂を起こされ、嫌々、結婚したという経緯がありました。

 そんな夫婦の元に生まれた朝倉少年でしたが、祖父母とりわけ祖母にかわいがられ、学校での成績も良く明るい少年でした。

 朝倉少年が5歳のときに、妹が生まれ、母親が妹の世話に追われるようになると、祖母が朝倉少年の世話を焼くようになりました。

 朝倉少年が中学校3年生のときには、両親の離婚話が出るようになり、その後、離婚することになりました。
 
 当時、朝倉少年は、父親とは、ほとんど口をきかないような関係で、特に両親の離婚には反対ではなかったようですが、自分の進路に親の離婚が影響するのではないかと気にしていたようです。

 両親の離婚を機に、祖母の朝倉少年への干渉が一層激しくなり、朝倉少年を自分の養子にしたいと娘である千筆さんに何度もお願いしていました。

 この頃(昭和52年)、開成高校生絞殺事件が起こり、後に発見される朝倉少年の遺書から、この事件で命を奪われたエリート高校生の苦悩と自分の苦悩を重ね合わせて、強く影響を受けていたことがわかります。

 ここで、開成高校生絞殺事件について触れておきます。

開成高校生の事件

 昭和52年(1977年)10月30日、東京都北区で、開成高校に通う16歳の少年が父親によって絞殺される事件が起きました。

 息子の家庭内暴力に悩んだ末の犯行でした。

 息子は、開成高校に通うエリートでしたが、父親は、小学校しか卒業していない苦労人でした。

 一人息子を溺愛し、小学校から当時としてはめずらしいミッション系の私立小学校に通わせ、息子も親の期待に応えるように、優秀で、小学校5,6年生の頃から進学塾に通い、家庭教師もつけてもらい勉学に励んでいました。

 当初、「開成」が何かさえ知らなかった両親でしたが、まわりからのすすめもあり、息子に中学受験をさせると、見事、開成中学校に合格しました。

 しかし、中学3年生頃から、ふさぎがちになり、高校1年のときに、家族の中で唯一尊敬していた母方の祖父が亡くなったのことを機に、両親を軽蔑するようになりました。

 自分の鼻が低いことに強いコンプレックス抱いたり、何かにつけ両親を責めまくり、家庭内暴力が激しくなり、両親の手に負えなくなったため、精神病院に息子を連れていきますが、診察した医者に、「ただのわがまま病です」と取り合ってもらえませんでした。

 しかし、暴れる息子のいる家で寝ていることもできなくなり、両親は、旅館やアパートを借りて、寝るという恐怖の日々が続き、ついに息子を精神病院に収容してもらうことにしますが、息子を溺愛していた母親が、「かわいそうだ」と泣くので、息子を退院させますが、症状は治まらず、暴力の繰り返しで、疲弊した父親は、息子の怒りの矛先が外に向かい、息子を犯罪者にしてしまう前に、父親自身が息子を殺して犯罪者になることを決意し、犯行に及びます。 

 父親が自首した当初は、父親をかばっていた母親でしたが、しだいに言動がおかしくなり、「息子を返せ」と父親を攻撃するようになり、翌年には、自殺をしてしまいました。

 息子の将来を悲観した末の父親の犯行でしたが、母親にとって、息子は、自分の命にも代えがたい存在だったのでしょう。

 朝倉和泉さんの「還らぬ息子 泉へ」の中で、息子が殺した人は、自分の母親だったこともあり、孫である自分の息子に、行きすぎなほど干渉する母親を煙たく思い、息子の耐え難いほどの嫌悪感も感じ取っていましたが、母親の寂しさを知っていたし、昔から決して仲の悪い母娘ではなかったので、息子にとっては、邪魔な存在だったかもしれないけれど、自分にとっては、かけがえのない人だったと複雑な心境を吐露しています。

 ある人にとっては、邪魔な存在でも別の人にとっては、かけがえのない人だと考えれば、人を殺すことなどできないのではないかと。

 

犯行までの経緯

 朝倉少年の事件に話を戻します。

 中学生最後の年に両親の離婚やエスカレートしていく祖母の過干渉もあり、多少ノイローゼ気味になり、成績が落ち、まわりの評判も悪くなっていきましたが、高校は、名門の早大学院に合格しました。

 名門高校に入学したこともあり、エリート学生に向けられる世間の目や社会の矛盾に敏感になり、自分たちエリートを認めない人間を大衆・劣等生と見下すようになっていきました。


 高校に入学した年の正月頃から、金槌を購入し、年が明けると、早めに登校して遺書のコピーを取ったりしていました。

 昭和54年1月14日(日曜日)、午前11時30分、家の中にいた千筆さんと妹は、家の外で、奇声をあげて走っていく人影を見かけますが、自分の家に関係のあることだとは当初思っていなかったようです。

 異変を感じ、2階に上がった妹が見たものは、血まみれの祖母の姿でした。

 祖母は、「孫の泉にやられました」という言葉を残し、意識を失いました。

 ここで、ようやく、家族は、さっき奇声をあげて走っていく人影が朝倉少年だったと知るのです。

 千筆さんは、救急車の中で「泉のために死なないで」と母親に語りかけながら、息子は死ぬと確信していました。

 病院に到着した千筆さんは、母親の死亡が言い渡され、それと同時に息子が世田谷の経堂ビルという建物から飛び降りたことも知らされました。

 翌日、1月15日には、朝倉少年の部屋から遺書や録音テープが警察によって発見され、警察は、遺書の書かれたノートの一部のみを公表しました。

 千筆さんは、家族を2人も失い、しかも、殺人事件の被害者と加害者であったことで、事件は、マスコミによりセンセーショナルに書き立てられ、息子のことや、子育ての失敗や家族として母親としての在り様を批判するような世間の声に苦しめられることになりました。

 あるとき、気づくのです。自分を苦しめる世間の声に反論して自分の名誉を挽回したところで、息子はいない。

 そんな堂々巡りの中、息子のことや事件のことを面白おかしく書く世間に対抗するには、息子のことを一番良く知っている母親である自分が書けばいいのだという考えに至り、「還らぬ息子 泉へ」の出版につながっていきました。

最後に

 「還らぬ息子 泉へ」を書いた目的は、ドキュメンタリーのように真実だけを世間に知ってもらいたいという母親の願いだったようですが、本を書くため自分の知らない息子のことを聞きまわるうちに、それは真実でなくなっていることに気が付くのです。

 真実を追求すること自体がフィクションであり、またフィクションでなければ人間の内面を描くことはできないということに気づきます。

 息子が何を考えていたのか、なぜ、こんなことになってしまったのか、その答えを見つけることが、この本の目的ではないので、「泉への手紙」という形式で泉さんに語りかけているのです。



 千筆さんは、子育てをしながら、36歳の時に、シナリオライターの勉強を始め、シナリオライターとして経歴を積みました。

 朝倉少年の死後、娘の千尋さんを育て、50代で日本語の教師としてアメリカに渡り、日本語を教えたりと、年齢に関係なくいろいろな可能性に挑戦していたようです。

 今は、千筆さんの名前を公の場で聞くことはないのですが、85歳になっておられるはずです。

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