こんにちは。今回は、「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」をご紹介したいと思います。
私がご紹介できるのは、この映画についてだけで、当時の政治情勢や三島由紀夫や全共闘について意見することはできません。
現代のゆるい日本に疲れてしまった人は、見るといいかもしれません。
同じ世の中を変えようという目標なのですが、SDGsやらダイバーシティやら個性を認めてみんな仲良くしましょう的な現代の運動に疲れてしまった人の目には、当時の血みどろの思想闘争を闘うインテリたちの姿はとても輝かしく映るのではないでしょうか。
「こんな時代もあったのか」となぜかほっとするのは私だけでしょうか。
映画は、1969年5月13日に駒場にある東京大学教養学部900番教室で1000人の学生を集めて行われた、三島由紀夫と東大全共闘との「伝説の討論会」の様子を討論会の当事者らの証言により現代によみがえらせようとするものです。
全共闘運動が始まった1968年は政治の季節と言われ、日本にも革命が起こるのではないかと言われていた時代です。
映画の中では、学生たちの闘争を三島由紀夫が危惧の念を持って偵察していたと語られていますが、文芸春秋の対談で三島は、革命を起こそうとする学生たちが「命を賭けているかどうか」を見に行ったと言っています。
闘争を見た三島は、学生たちは「命を賭けて」いないと批判をしていますが、思想が正反対の全共闘相手に「お互いを理解しないことを前提に言葉をぶつけ合ってみようや」という三島の懐の深さを感じます。
討論会自体は、哲学や政治、当時の時代背景、三島や全共闘の政治的思想などを少しでも知っていなければお花畑になってしまうのですが、三島のユーモアのある返しや全共闘のインテリぶりにどんどん引き込まれます。
三島由紀夫については、この映画を見るまで、文学作品は素晴らしいが、政治的発言をするナルシストで美少年が好きなあぶない人という印象を持っていました。
私が生まれる前に割腹自殺という壮絶な死に方をした人でどこか不気味さが漂っていました。
とにかく、不気味でした。
平凡パンチなどという雑誌に寄稿していて、人気投票で1位になるようなおちゃめな面は知らなかったし、あのナルシストぶりも作品を書くためだったことも知りませんでした。
ナルシストにも理由があり、「自己を尊重できない者がどうして人間を尊重でき、真実を尊重できるのかね」と語っています。
映画の中で、全共闘の芥氏が赤ちゃんを抱いて現れるシーンやみんなでタバコをプカプカして灰を床に落とすシーンなどに目を奪われるのですが、彼らにとって、討論会なんてものは日常茶飯事だったんだろうと思うのです。
当時、革命闘争に燃えていた彼らにとっては、三島を目の前にしても、ビビることはなかったのかもしれませんが、20代前半の若者が三島を相手に討論するだけでも、老婆心に立派だと思ってしまいます。
そのくせ、当時を振り返って、わざわざ討論するために来てくれた三島が我々をリスペクトしてくれたと三島を評価しているし、この討論会の映画化に際しても、きちんと勉強しなくては三島がかわいそうだとも言っています。
三島が生きていたら、今の日本をどう思うだろうか。
みんなが知りたいことだと思います。
三島が「未来はオレに関係なくつくられてゆくさ」と言った通り、今の日本は、三島に関係なくつくられてゆく。
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